沿革と現状

沖縄は昔から中国漆器の技法を取り入れ、もっぱらその習得につとめてきましたが、特に1609年(慶長14年)以来薩摩に支配されるようになってからは、施政上の立場から当時の琉球王府が直営としての貝摺奉行所(漆器製作所)を拡大強化し、漆器の生産に力を入れました。生産品は中国風に出来ており、将軍家への献上器、諸大名への贈答品、あるいは民間交易品として珍重されるようになりました。

又こうした漆器は次第に貴族階級の生活の中に取り入れられ、宮廷舞踊や冊封使のための重要な什器としての役割も持つようになりました。漆器の最も古い記録によりますと、1427年(応永34年)明の皇帝宣宗が琉球から漆を購入させたとありますが、沖縄ではこの頃から既に漆の技法があったようです。その後1879年(明治13年)廃藩まで幾度か工匠を中国に派遣、「螺鈿」「沈金」「箔絵」その他さまざまな技法を学んでいます。とりわけ1715年(正 徳5年)比嘉乗昌が中国の素朴な加飾法から高肉の華麗な加飾法を編み出し、これが今日琉球漆器を代表する「堆錦」であります。ロクロは1629年(寛永6年)に薩摩大隈の人から伝えられ、これが塗師となって住みついた若狭村(後の那覇市若狭)が廃藩置県後琉球漆器生産の中心地となりました。

琉球王朝崩壊後は官業から民業に移り、昔の面影が次第に失われてきましたが、1902年(明治35年)には首里区工業徒弟学校を設立。後継者の育成に努め、ようやく沖縄の漆器が丈夫で安く、朱塗りの美しい琉球漆器として全国に知られるようになりました。1927年(昭和2年)沖縄県立工業指導所が開設され、1930年(昭和5年)にはロクロ、製材の動力化による設備の近代化が図られました。しかし、戦が深刻化するにつれ、沖縄では漆や資材の入手難に陥り、1944年10月那覇大空襲によりすべてに終止符が打たれ、そのまま敗戦となりました。

戦後の灰燼の中から米国駐留軍向けスーベニア(土産品)作りとして再出発した業界は、行政的に完全に本土と隔絶された環境の中で幾多の障害と戦いながら琉球漆器の伝統を守り続けてきました。米国人、軍属、PX向けに作られた漆器も次第に県外からの観光客の増加に伴い、又民芸ブームの影響もあいまって、質的転換が図られていきました。その後、復帰を境に県内ではにわかに地場産業育成の機運がおこり、工芸産業全体が大きくクローズアップされるようになりました。この動きの中で県は、昭和49年伝統工芸課、伝統工芸指導所を設置し、伝統工芸の産業としての振興を推進してきました。

技術と技法Ⅰ

沖縄は亜熱帯に位置し、年間の平均気温は約22.3℃、湿度78%であり、漆器生産地としては稀にみる恵まれた気候条件と、漆器木地としての狂いや亀裂が生じないデイゴ、シタマキ(エゴノキ)、木目仕上げの美しいセンダン、ガジュマル等の優秀な素材をもっています。塗り木地としてのデイゴは大物の盆、鉢類に最適で、シタマキは小物の棗、香合、ボンボン、椀類、茶托等のその特性を発揮しています。又近年キビ繊維利用のバカス素地が開発され、現在実用化されています。

技術と技法Ⅱ

また沖縄の朱塗りの鮮明な美しさは、他の追随を許さないものがあり、黒塗りとのコントラストは大胆で斬新であり、今日では琉球漆器の大きな特色の一つとなっています。加飾法については沖縄独特の「堆錦」の他に中国から学んだ「螺鈿」「沈金」「箔絵」等があります。「堆錦」は顔料と漆を固く練り合わせ餅状にしたものを板上で薄く伸ばし、模様を切り抜き器物に張りつけ、その上でさらに筋入れ彩色を施す技法です。「螺鈿」は中国と同じ埋込法で紙のように薄く摺り上げた夜光貝(現在はあわび貝)を模様の形に切り抜き器物の表面に貼りつけ、その高さまで黒漆を塗り込み 研ぎ出す方法で、模様を貝特有の自然の色で巧みに配色しているのが特色とされています。近年は塗立のうえ、貝面の全部漆を小刀でハジキとる方法がとられて います。「沈金」は元来中国の「鎗金」の技法を受け継いだもので、特徴は模様そのものより器物の形を強調するよう単一の細い線で全面に模様を施し、最後に彫線に金箔等を摺り込んで仕上げます。地色の朱に金箔が映えて実に華麗で、しかも重厚なものとなっています。琉球漆器は、加飾法が多種多様なことも、またその特色の一人です。